学校法人大阪経済大学のプレスリリース
2026年7月23日(木)、人間科学部の「スポーツ健康科学概論」で本学客員教授の石黒由美子氏による特別講演「夢を諦めない」が行われました。石黒氏は、アーティスティックスイミング元日本代表選手です。「オリンピックに出る」という小学生の頃からの夢をかなえ、2008年の北京オリンピックに出場した経験を持ちます。
「夢を諦めない」という講演のタイトルは、まさに石黒氏のこれまでの生き方を表しています。小学2年生で交通事故に巻き込まれ、後遺症や数々の挫折を経験しながらも、オリンピック出場という夢をかなえた石黒氏。その歩みを支えた家族の存在や夢との向き合い方について、学生たちに語りました。
絶望的な事故と、根拠なき母の言葉
石黒氏は、小学2年生の時に大きな交通事故に遭いました。停車中の車に暴走車が突っ込み、首から上だけで約800針を縫う大怪我を負います。網膜剥離による視力障害や難聴、さらには交通事故以前の全ての記憶を失ってしまいました。
絶望的な状況でしたが、約半年間の入院生活中にテレビで出会ったのが、シンクロナイズドスイミング(現アーティスティックスイミング)です。華やかな水着で、水中を美しく舞う選手たち。その姿に憧れて、「夢ノート」に「オリンピックに出る」と書いたのが、彼女の原点となりました。
ところが、退院後にはつらい現実が待ち構えていました。当時の石黒氏の視力は極めて低く、視野も狭くて周囲がよく見えません。三半規管に後遺症が残ったせいで、すぐに人とぶつかってしまいます。水中での人との接触は骨折などのケガに直結するため、練習すらまともにできない状況でした。
小学校生活も思うようにはいきません。高次脳機能障害となったことで、中学1年生になっても九九が覚えられないほどに記憶力は低下。文章を斜めに読み飛ばしてしまうなど、「100点満点のテストで7点しか取れない」状態です。顔の大きな傷跡から「フランケン」というあだ名をつけられ、「アーティスティックスイミングもダメ、勉強もできない、友達もいない」という、苦しい日々を余儀なくされました。
そんな中、「母だけが私の人生を諦めていなかった」と石黒氏。「由美ちゃんの人生の振り子は苦しい方に大きく振れているけど、反対側には幸せ、楽しいって思える出来事が必ずある。あなたのこれからがママは楽しみ」と声をかけ続けます。「宇宙一由美ちゃんのことが大好きなママが言うんだから間違いない」という根拠なき母の言葉を何度も耳にするうちに、「なぜだか信じてみたくなった」と石黒氏の気持ちも少しずつ前を向いていきました。
積み重ねた努力と、夢を阻む相次ぐ挫折
中学1年生になった石黒氏は、20歳でアテネオリンピックに出るための道筋を調べ、猛練習を始めます。毎朝4時55分に起き、5時から夢ノートに今日やることを全て書き出し、それを全部こなす日々を重ねた結果、中学3年生で初の全国大会出場を達成。そこから一気に実力を伸ばし、高校3年生でジュニアの日本代表入りを果たします。
そしてついに全国から有力選手を集めて行われるアテネオリンピックに向けた強化合宿に参加するところまで手が届いたものの、9人が選ばれる選手選考会で、石黒氏は後一歩及ばず10人目で落選。「人生をかけてきたのに」「あとちょっとだったのに」とほぞを噛みながら、ともに練習した選手たちがオリンピックでメダリストになるのをテレビで見ていました。
そんな石黒氏に追い討ちをかけるように、選手人生を脅かす出来事が起こります。体重管理の問題で、日本代表と地元クラブチームの双方をクビになってしまったのです。
「教育大学に進学し、教育実習中だった大学2年生の私は、体重を3キロ増やしてしまったんです。それが原因で、『日本代表としての自覚が足りない』と言われてしまいました。愛知県初のアーティスティックスイミング日本代表選手として万歳三唱で送り出されたのに、大失態です」
その後、石黒氏は日本水泳連盟からの依頼で、アテネの次の北京オリンピックに向けた中国人選手の強化コーチとして、中国へ派遣されます。乗り気ではなかったものの、真面目に練習する中国人選手と過ごす日々は楽しく、あっという間の数カ月間を過ごしました。
ところが帰国後に大学へ戻ると、中国へ行く前に提出した教育実習のファイルに不備があり、予期せず留年していた事実が明らかに。夢だったアテネオリンピックに出られないどころか、日本代表から外され、中国での指導を終えて帰国したら大学まで留年している。畳み掛けるように訪れたショックな出来事の数々に、石黒氏の心はついに折れてしまいました。
期待されていなかった、北京オリンピックへの出場
うつ病と過食症を併発した石黒氏は、約1年間、競技から離れた生活を送りました。再びアーティスティックスイミングの世界に戻る契機となったのは、後輩の存在です。後輩から愛知県初の日本代表Aチーム入りを果たしたと報告を受け、応援しに行った大会で、「自分の本心に気付かされた」と石黒氏は振り返ります。
「後輩の演技に感動しながら、『私もあの舞台に立ちたかったんだ』とボロボロ涙がこぼれました。選手としてプールにいられないことへのつらさに、代表をクビになって1年半も経って、ようやく気付いたんです」
1日練習を休むことすら稀なトップアスリートの世界で、石黒氏は1年半も競技から離れていました。過食症で体重も約40キロ増加。そんな状況でも、やはり母は石黒氏を励まし続けます。「ここからの未来はこの瞬間から始まるんだから、遅いことなんて何もない。絶対に行けるから、一緒に出直そう」と泣きながら声をかける母親の言葉が「心の底からうれしかった」と石黒氏。
とはいえ、アーティスティックスイミングは狭い世界であり、地元のクラブチームをクビになった石黒氏が行く場所は、どこにもありません。それでも約1年半、「真剣に努力して運を天に任せる『運天作戦』」を発動し、ジムでひたすら走り、泳ぎ続けます。
作戦が功を奏したのか、地元のクラブチームのコーチから「名古屋で主催する全国大会の運営を手伝ってほしい」という連絡が来たことを機に、クラブのプールで再び泳ぐことを許されます。最初は選手ではなく小学生選手のコーチとしてでしたが、一流選手が目の前にいる環境は「最高」と、必死に選手の動きを観察しました。
「誰も私がオリンピックに出られるなんて思っていなかったけど、私だけは着々と準備を進めていました。人知れず自主練習を重ね、最終選考会に残れるだけの成績を確実に残し、ついに北京オリンピックの選考会に滑り込むことができたんです」
オリンピックには魔物が潜む。よく言われる言説ですが、「オリンピック選考会が一番ピリピリする」と石黒氏。プレッシャーで力む他選手を尻目に、誰からも期待されていなかった石黒氏は伸び伸びと演技ができました。その結果、ついに石黒氏はオリンピック出場の座を掴み取ることができたのです。
希望の光は、誰かが信じ抜いてくれた時に灯る
2008年8月22日、石黒氏は小学生の頃からの夢だったオリンピックの舞台に立つことができました。しかも、その日は母親の誕生日。残念ながらメダルには届かなかったものの、石黒氏と母の軌跡は全国111社もの新聞社が誌面に取り上げ、翌朝の朝刊で大きく報道されました。
それ以来、テレビ番組で取り上げられたり、NHK出版から著書「奇跡の夢ノート」を出し、それが愛知県の道徳の教科書に採用されたり、全国の学校や会社から講演の仕事が舞い込んだりと、「夢ノートに書いたことがその通りになって、今につながっている」と石黒氏。「人生の振り子は必ず幸せな方へ行く」とかつて母が言ったように、「生きていてよかった」と思える人生を歩んでいます。
その背景には、「チーム石黒」の存在がありました。母親は石黒氏を励ます一方、弟と妹には「お姉ちゃんは一人では生きていけないから、チーム石黒で支えよう」と伝えていたのだと、石黒氏は後になって知りました。
「誰かの足元を照らすと自分の足元も明るくなるように、誰かの未来を照らすことは、自分の未来を明るくすることでもある。だからお姉ちゃんを思いきり支えることは、あなたたちの道も拓くことでもあるのだと、母は弟と妹に言っていたそうです。母の言葉通り、『姉を助けた人たちのようになりたい』と、弟は外科医に、妹は弁護士になりました。母は誰一人取りこぼすことなく、全員を引き上げる人で、感謝してもしきれません」
石黒氏は、「希望の光は、誰かが信じ抜いてくれた時にやっと灯る光」だと言います。「できないかもしれない」と自信を失いそうになったときに、「できるよ」と言ってくれる人がいることで、「やってみよう」と勇気が湧いてくる。大事故からのオリンピック出場という途方もない夢をかなえた石黒氏は、自身の経験からそう語ります。
「皆さんも、自分の本当の味方になってくれる人を一人でもいいので見つけて、その上で、自分自身も誰かの味方になってあげてください。誰かを本気で応援し、その人の道を照らせば、きっと自分の道も照らされます。そんな味方と共に、人生を切り拓いてください」と学生たちにエールを送り、講演を締めくくりました。
大阪経済大学
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