高校球児の熱い夏!甲子園の歴史

日本の国技は、皆さまもご存知のように『相撲』とされていますが、実際のところ、競技人口・観戦者人口のどちらを見ても圧倒的に人気があるのは、今も昔も『野球』なのではないでしょうか。そして子供の頃から野球に親しんできた人なら一度は憧れたことがあるのが『甲子園』なのではないでしょうか。プロ野球球団『阪神タイガース』のホーム球場であると同時に、毎年春と夏に開催される全国野球大会から高校野球の聖地としても知られています。最近ではスポーツ観戦の楽しみ方もバリエーション豊富になってきていますが、スポーツベットを楽しむファンも増えてきていると言われています。日本国内の試合だけでなく、アメリカのメジャーリーグをはじめ、世界を舞台に活躍する日本人野球選手のプレイもライブで応援できると話題になっています。ここでは日本の野球史において、燦然と輝く甲子園の歴史と魅力を紐解いていきたいと思います。

日本野球の黎明期

日本に野球文化がもたらされたのは、19世紀後半、野球誕生の国・アメリカからでした。1871年に来日した米国人ホーレス・ウィルソンが、当時の東京開成学校予科(その後、旧制第一高等学校、現在の東京大学)で生徒に教えたのがはじまりだったと言われています。こうして西洋文化のひとつとして紹介された野球は、1873年に東京都内で初めて行われた試合を皮切りに、日本全国で一気に広まっていったと言われています。その後、日本野球は様々な形で発展していきました。1920年に早稲田大学野球部OBらによって日本初のプロ野球チーム日本運動協会(芝浦協会)が、1921年には天勝野球団が創設されましたが、両球団とも後に解散。1934年、読売新聞社の正力松太郎によって大日本東京野球倶楽部が創設され、1936年には日本初のプロ野球リーグ『日本職業野球連盟』が設立されました。第二次大戦中は、戦火が激しくなるとともに野球活動自体も下火になってしまったものの、終戦後の1950年代以降には大学野球などが盛んとなりました。そして1970年代には再びプロ野球の発展が加速し、1980年代以降は多くの新設スタジアムが開放されるなど、日本経済の発展と並行して、野球界も進化していくこととなります。そして現在にいたっては、日本選手がアメリカのメジャーリーグでも大活躍したり、ワールド・ベースボール・クラシックやオリンピックのような世界大会でも日本チームが輝かしい記録を残すなど、世界レベルで見ても日本野球の発展は目覚ましいものがあると言われています。

甲子園

こうした日本の野球文化を育んできた場所でもあるのが、甲子園です。実は甲子園とは略称で、正式名称は『阪神甲子園球場』といいます。兵庫県西宮市に日本で初の大規模多目的野球場として1924年8月に開場しました。設計当時の日本では、こうした球場がなかったため、当時のニューヨーク・ジャイアンツの本拠地であったポロ・グラウンズをモデルに設計されたと言われています。完成予定の1924年が十干十二支の最初の組み合わせで縁起の良い甲子年(きのえねとし)だったため、『甲子園』の名がつけられました。第二次大戦中には軍が接収し、グラウンドのうち内野は芋畑、外野は軍のトラック駐車場など、軍事関係の施設として利用され、それがために空襲を受けるなど、様々な歴史の波に揉まれましたが、戦後は再び野球場として復活し、来年2024年には記念すべき100周年を迎えます。

高校野球の聖地として

1924年の開場以来、戦時中を除いて甲子園では毎年、春と夏に野球児のための全国大会が開催されてきました。春の『選抜高等学校野球大会』はもちろんながら、とりわけ暑い盛りの真夏に開催される『全国高等学校野球選手権大会』では、毎年、日本中から集まった高校球児たちが今も熱い闘いを繰り広げています。近年では甲子園での活躍が、そのまま日本の野球界はもちろん、アメリカの野球界での活躍にも繋がることもあり、毎年選手たちの活躍には大変な注目が集まっています。現在、国内外で活躍する多くの野球選手も甲子園出場経験があり、例えば、のちに『平成の怪物』と呼ばれることとなる松坂大輔選手も1998年の大会決勝戦でノーヒットノーランを達成しています。他にも2006年大会で繰り広げられた田中将大選手と斎藤佑樹選手のライバル対決など、今も多くのファンに語り継がれるドラマを残しています。今も昔も、甲子園は野球選手とっては聖地であり続けているのです。

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